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Vol.5 博多の背骨を知っているかい!

前回までに、秀吉の町割りについて書いてきた。
それを、もう一度簡略して説明すると。

秀吉の天下統一に、九州征伐に向かうなか、
薩摩軍が博多の町を焼き払い、
誰もいない焼け野がとなりる。


それを見た秀吉は、博多の街の再興を誓い、
新しい街作りをすべく、町割りを
部下に命じ新しいモノサシを作って、実行していく。


最初の決め事 ーーーー> 基本の道が決められる。


昔から、あったもの。
菅原道真公が作った、太宰府天満宮と海を結ぶ道があった。
平清盛の時代には、日栄貿易としての道筋でもある。

海からの風をそのままに、陸からの風も流れやすい、
大きな道。

黒田官兵衛から、長政と、代々黒田藩が守った町割りの背骨が、
それが、「 大博通り 」でもある。


博多の海から、ず、ずず〜っと真っすぐに、
JR博多駅に。


博多の背骨の歴史である。


仮に、そのまま真っすぐに博多の港から太宰府天満宮までの道が今もあったら。

福岡地区の発展はなく、
太宰府が中心になっていたかも!


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一週間後の、
8月1日木曜日は、
大濠花火大会 
6000発がある。
官兵衛はそれを待ち遠しい。

官兵衛のオリジナルの見解は、
まだまだ 続く。