Vol.1ー2 博多の町割 後編
焼け野が原の博多。
それを見て、秀吉は復興に手をつける。
この時に、石田三成他、豪商神屋宗湛に嶋井宗室協力のもとに
『 太閤町割り 』が行われる。
これについて詳しくは、他のWebの解説にお任せして!
官兵衛は、太閤町割をこう考えただろう。
1)ゼロからの開発 … 焼け野が原のゼロ状態からの出発で、計画通りに作り上げられる。
2)進歩的なこと… 海側の息浜(おきはま)と陸側の博多浜と別れていた。
そこで、入り江や湿地を埋めて、息浜と博多浜を一つの町とした。
(埋め立てによる開発という公共投資である)
3)ものさしを使った…博多町割間杖(かんじょう・ものさし)を作り、
約六尺五寸(約198センチ)の松材の棒を町割に使用した。
4)近世都市作り…一町(約109メートル)四方の区画を、その中に、
東西に3本、南北に4本走らせた。
この一画を「 流れ 」と呼んだ。
この様に、太閤町割は、博多を発展しやすい街へと導いた。
この「流れ」は、もうすぐ始まる7月の博多祇園山笠の七流れとして、
発展している。
早すぎますが、
8月1日木曜日は、
大濠花火大会
6000発がある。
官兵衛はそれを待ち遠しい。
官兵衛のオリジナルの見解は、
まだまだ 続く。